「二俣の満月(つき)」だより №1 2008年春  このたよりは、歌「二俣の満月(つき)」(作詞:おがわひろし、作曲:おがわしげる、歌:竜 一樹)に関する  情報を伝えるため編集されています。問い合わせ先:鈴木(090−1628−4915)天竜区山東まで 

信康は、なぜ切腹したのか?
信康は、天正七年(1579年)九月十五日、二俣城で切腹しました。信康が二十一歳のときでした。では、なぜ切腹しなければならなかったのでしょうか?
信康の妻は、信長の娘(五徳)でした。また、信康の母(築山殿)は、今川家臣の娘
でした。今川義元は、桶狭間の戦いで信長に殺されています。そのため、築山殿は信長の娘である五徳に冷たくしたと言われています。また、信康は、武田家臣の娘を妾としていました。このような中で、五徳は、父信長に宛て手紙を託したと言われています。 それには、当時信長の最大のライバルであった武田と信康母子が、通じていると書かれていましたが、信用できるものであったかどうかは、疑わしいようです。しかし、信長は、この手紙を機会に、信康母子の殺害を父である家康に命じました。信長の真のねらいは、武将としての将来性のある信康(息子信忠と比べて)が邪魔だったことや、家康が本当に信頼のおける家来かどうかを、確かめるためのものであったと言われています。父家康は、もちろん簡単にこれを受け入れたのではありません。しかし、徳川家を守っていくためには、信長の命令に従うより他になかったのです。今の時代では、考えられないことですが、戦国の時代にはめずらしくない出来事でした。

  信康が切腹した二俣城跡           信康の墓(清滝寺








                      写真は、パンフ(「信康と二俣城」天竜市発行)より